失われた文明 インカ・マヤ 第2集 マチュピチュ 天空に続く道

シリーズ 失われた文明 インカ・マヤ 第2集 マチュピチュ 天空に続く道

番組の内容に個人的な感想を織り交ぜながら紹介していきます。

インカ帝国の都は、標高3,400m、世界遺産のクスコだった。

赤い屋根が見事な美しい街である。行ってみたいですね。

今のクスコにはかつてのインカ帝国の面影はあまり残っていないという。

16世紀にスペインの侵略によって街は洋風に改造されたという。

文字がないインカ帝国には文書の記録がないという。

インカ帝国を知る手がかりはワマン・ポマが500枚の絵で綴った年代記だという。

この年代記を紹介するシーンでは、絵がCGで動くようになっていて、

インカの暮らしぶりを簡単に紹介している。

それによると、アンデスの人々は家もなく、動物や木の実を獲って生活していた。

そこに”太陽の子”を名乗るインカ皇帝が現れ、農業や石組みの技術を教えたという。

その結果、食料があふれ、豊かな国となったという。

しかし、スペインの植民地となった後は、人々は重い税と過酷な取立てに苦しんだ。

多くの都市を破壊したスペイン人、しかし、山頂の都市、マチュピチュには気づかなかった。

アンデスの動物リャマは今も昔も険しい山道で荷物を運ぶには頼りにされているという。

マチュピチュを建設したのは第9代皇帝のパチャクティ。マチュピチュは皇帝の冬の都と言われている。

マチュピチュの内部を紹介するシーンになる。

1mmの隙間もなく組み合わせた石の壁、水路と泉などが映る。

使った道具は石のハンマーと青銅のノミだけだというから凄い。

長い階段を登り、右に曲がると、王の住居と呼ばれるスペースにたどり着く。

パチャクティが寝泊りしたと思われる部屋も紹介されました。

そこからちょっと出たところの階段を昇ると、美しい曲線を描く半円形の建物に突き当たる。

太陽を観測した”トレオン”と呼ばれる建物。中には不思議な形に刻まれた岩がある。

東南の窓から差し込む光が岩に不思議な影を落とすという。

トレオンの下にはパチャクティの墓と呼ばれる謎の洞窟もある。

考古学者のアルフレド・モルモントイさんが登場。今の発掘の様子が映る。

焦げた土器の破片が新たに見つかる。

過去のさまざまな出土品が一挙に紹介される。青銅の鏡、赤道近くの貝殻など…

マチュピチュの研究家、アルフレド・バレンシアさんによると、

皇帝パチャクティは多くの貴族や警護の人に囲まれ、まさに王の暮らしをしていたらしい。

住居は壮麗で、中には赤い漆喰が塗られていたという。

ベッドにはやわらかい毛織物が敷かれ、皇帝はそこに横たわって寝たらしい。

500年前の様子も明らかになった、藁葺きの屋根で覆われていたという。

そこには石工や銀細工の職人、布の織りこなど、1000人近くが生活していたらしいです。

マチュピチュへの道①

クスコを早朝に出発した列車は”スイッチバック”という方法を繰り返し、急峻な山道を登っていく。

線路沿いにはウルバンバ川が線路に沿うように流れる。

途中下車のオリャンタイタンボ駅近くの遺跡は、皇帝パチャクティの別荘と言われている。

インカ兵がここでスペイン軍との一戦を交えたことでも有名のよう。

オリャンタイタンボ駅を後にした列車は一路マチュピチュのふもとの街へ向かう。

クスコから4時間、終点のアグアス・カリエンテス駅に到着。

街の露店には水着が並ぶ。何に使うかというと、近くの温泉に入るためだ。

アグアス・カリエンテスは温泉の街。ゆっくり温泉で長旅の疲れを癒すのも良い。

目指すマチュピチュは、もう目の前である。

そういえば、探検ロマン世界遺産の藤井アナもこの温泉に入っていましたね。

外見は温泉というより、何かプールのようでした。

マチュピチュの東200kmにあるケウエ村では毎年つり橋を架け替えるという。

その作業はインカ時代から続く村人総出の伝統行事だという。

架け替えのシーンが映るが、とても怖い。下は深い谷底。

橋の両側に1人ずつ座り、わらを編みながら前へ進んでいく。

橋が完成した後のシーンでは、その後ろ側に続くインカ道が階段状に連なる。

次はペルー文化庁のインカ道の調査の様子。

花崗岩の崖をロープをつかみながら横移動するシーンや

幅80cmのインカ道をおそろおそろ進んでいくシーンはこれまたスリルがありました。

インカ道の様々な工夫には関心です。

一定間隔で排水溝があったり、土台には石が崩れないように溝が入っていたりと。

また、標高6,000mの山にまで道が作られていたようです。

インカ道の総延長は40,000km、気が遠くなりそうな距離ですね。

マチュピチュとクスコの中間地点にあるマラス村。

遠くの山々の景色が素晴らしい。

その村の長老のパウリーノ・シンチロカさん(77歳)、いい顔してたなぁ。

第2代のインカ皇帝、シンチロカの末裔だという。

シンチロカというのは、石を支配するという意味らしい。

マラス村は標高3,200mにあり、昼は30℃近くになるが、夜は氷点下まで冷えるという。

祝い事の時に食べる”クイ”というねずみも暖炉の側を離れない。

でかいねずみだなぁ、アレを食べるのかとビックリです。

シンチロカさんは先祖から受け継いだマラスの塩田で毎週塩を採っているという。

マラスの塩田、めちゃめちゃでかい。

山の斜面が真っ白なあの光景は壮観でした。

シンチロカさんの話によると、マラスの塩田で採れた塩はインカ時代、

マチュピチュやクスコはもちろんのこと、国中に運ばれていたという。

マラスの塩田をバックに立つシンチロカさんの映像。(ここだけ4:3でなぜか8㍉っぽい映像)

再び年代記の紹介とアニメーションを合成したシーン。

インカ道について触れた部分である。

20kmおきに宿場が築かれ、チャスキと呼ばれる飛脚が配置されていたという。

飛脚は駅伝方式で1日に280kmも駆け抜けたという。

情報伝達の手段は、キープと呼ばれるひもの束。結び目の位置や数、色などで

複雑な情報を読み取ったという。

個人的にここで思い出したのが、紙テープを使ったコンピュータの情報読取りであった。

アレに似てるなぁ…と関心した。

話は戻り、キープには帝国のさまざまな情報が記録されていたという。

物資や税収から家畜の数までと。

キープカマヨックと呼ばれる専門の役人がこれを解読し、皇帝に伝えたという。

この情報により皇帝は瞬時に状況を把握し、的確な指示を出すことができたという。

BSハイビジョン版ではチムーの金属加工やティティカカ湖周辺の民族の風習などのシーンもありました。

中でも驚いたのが、コヤ族と呼ばれる民族の風習。

墓から発掘されたコヤ族の骨は、頭蓋骨が長時間圧力をかけることにより細長く変形させられていた。

マチュピチュでも同様の骨が見つかっているとのことです。

マチュピチュへの道②

アグアス・カリエンテスの街をバスで出発。バスはつづら織りの山道を30分かけて登る。

マチュピチュ遺跡の入り口に到着。入場料はやや高めである。

遺跡が開いているのは朝6時から夕方5時半まで。

発見者ハイラム・ビンガムが「世界で最も美しい石壁」と賞賛した石壁などが紹介される。

その他石切り場、コンドルの間、ウシュヌと呼ばれる岩などを紹介。

インカ帝国が作った傑作マチュピチュは、1日中見ていても飽きないという。

アンデスの村祭りのシーン。

お互いにムチを打ち合い農作物の実りを願うという。

あれはめちゃめちゃ痛そう。

食料に苦しんだアンデスの人々が生み出した実に不思議な祭りだった。

インカは1000万の人々の食料をどうやって獲得したのか、その手がかりが

高山の都市マチュピチュにあるという。

クスコ文化庁の収蔵庫にはマチュピチュで発見された骨が保管されている。

骨の分析によると、健康状態は完璧に近いものだった。食料は十分にあったという結論。

次はマチュピチュの調査隊が命綱一本で断崖の草木を取り除きながら

発掘作業を続けるシーンでした。

これもまた迫力がありました。

すると、段々畑アンデネスが姿を現した。

皇帝パチャクティは、急峻な山肌を石組みの技術で畑に変えていったという。

山すそのあちこちで農地が見つかった。その近くからは500年前の用水路も見つかった。

調査隊が土をかき出すと、水が流れはじめる。

とてもきれいな水だったのには感動です。

考古学者のアルフレド・モルモントイさんによると、インカの人々はここで実りを祈り、

畑に水を供給していったという。

畑の土を花粉分析で調べ、当時どんな作物が作られていたかもわかってきた。

とうもろこしや芋類など、20種類もの作物が作られていたという。

どうやって様々な作物を作ったかというと、段々畑の高低差を利用したようだ。

川に近い暖かい畑ではとうもろこし、山頂に近いところでは低温を好むジャガイモが栽培されていた。

豊かな実りを得るには、農作物の収穫の時期などを正確に知る必要があった。

その方法を知る手がかりが発掘作業で見つかった。

発掘作業を続けると、今度は観測用の建物が発見される。

農作業の時期を知るための建物だという。

壁に小さな穴があけてあり、そこから太陽などを観測したという。

マチュピチュでも観測施設が見つかっている。太陽を観測した”トレオン”である。

皇帝は”トレオン”で夏至や冬至を知り、人々に指示を出したという。

豊かな実りをもたらすことで、インカ皇帝はその権威を高めたという。

再びマラス村。

毎年、高地の村の人々と物々交換が行われるという。

高地の村の土器などの特産物とマラス村の農作物を交換するらしい。

インカ道のおかげでアンデス地方の公益は盛んになった。

インカ皇帝の子孫、シンチロカさんは瓶がお目当てだった。

シンチロカさん「明日、とうもろこしで払うよ」

村人「今じゃなきゃダメよ」

シンチロカさんの残念そうな顔、このやりとりが面白かった。

マラス村を見下ろす丘の上にはインカの貯蔵庫(コルカ)が復元されている。

当時、マラス村には200近くのコルカがあったとされている。

シンチロカさんの話によると、ここに貯蔵された食物は5年~7年くらいはもつという。

インカ時代、コルカには村人から農作物が税として納められ、備蓄された。

インカ道の建設に携わった人への報酬としてコルカの食物が与えられた。

また、不作の年にはここから備蓄が放出され、人々を飢餓から救ったらしい。

年代記の元にある日のマチュピチュを再現するアニメーション。

皇帝パチャクティが息子のトパ・インカにインカをおさめる哲学を説いていた。

それは「奪って豊かになるのではなく、与えて豊かになる」というものだ。

年代記によると、パチャクティが即位する前、インカは周辺の民族と食料を巡り争いが絶えなかった。

そこにパチャクティが現れ、段々畑アンデネスをつくり、コルカの食料を与えたという。

これであまたの民族が戦わずとしてインカの統治を受け入れたという。

パチャクティと息子と孫の僅か50年ほどの間にインカは急速に拡大した。

80の民族を束ね、南北4,000kmの広大な統一国家となった。

マチュピチュを作ったインカ皇帝パチャクティは1471年に息子に王座を譲り

その数年後に生涯を終えた。

それから60年ほど後の1532年、エルドラドを探すスペイン人がペルーの海岸に姿を現す。

インカ道とコルカの食料のおかげで宝探しの旅は順調に進んだ。

スペイン人の要求であるキリスト教への改宗を拒否したインカはスペイン人の襲撃に遭う。

捕えられた当時の皇帝アタワルパは身代金として部屋を黄金で満たすことを約束する。

しかし、宝を手にしたスペイン人はアタワルパ処刑する。インカ帝国は滅びる。

当時の混乱はマチュピチュにも残されていた。太陽を観測したトレオンの近くで大量の破壊された土器が見つかる。

マチュピチュの人々は自らの手で街を放棄し、さらに奥地へ逃げたという。

スペインの支配のもとでインカ道は次第に荒れ果てていった。

このシーンでは、「インカ道は次第に荒れ果てていった」というナレーションに合わせ、

マチュピチュの小さな岩が無数に転がっている場所を故意にカメラをぐらつきさせながら映していた。

NHKのうまいところですね。荒れ果てたという表現をよく伝えるためですね。

マチュピチュは密林に覆われ、後に発見されるまで400年の長い眠りについた。

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